飼料を育て、牛を飼い、牛乳をつくる。日本唯一の“酪農家 兼 乳業メーカー”「有限会社 中村牧場」|宮崎県都城市ふるさと納税特設サイト

飼料を育て、牛を飼い、牛乳をつくる。日本唯一の“酪農家 兼 乳業メーカー”「有限会社 中村牧場」

 昭和38年、宮崎県農業法人第一号として設立された「有限会社中村牧場」(以下:中村牧場)。都城では赤いパッケージの牛乳として知られています。ここは日本で唯一、自社牛乳のみで製品をつくっている「酪農家 兼 乳業メーカー」。東京ドーム7個分という広大な牧場内の土づくりから始めた畑で牛の餌となる穀物や野菜を育て、牛を飼い、牛乳やコーヒー牛乳、アイスクリームを製造しています。この牧場を一代で築き上げたのが御年85歳の会長・中村松教(まつのり)さん。中村さんがどうやってこの広大な牧場を築き上げたのか。松教さんの孫で品質検査を担当している中村勇大さんとともに、お話を伺いました。

 

「農家を馬鹿にするのはおかしい!」
先生への反骨心から農業の道へ

 宮崎県内有数の進学校で学んでいた松教さんが、農業の道に進もうと決意したのは高校1年生の時。「父が建築業だったので、卒業後は工業大学で学ぼうと思っていました。でも、ある日、学校の先生が農家を馬鹿にするような発言をしたんです。それを聞いて〈農家がいるから飯を食えるのに何を言うんだ!自分は農業をして先生を見返してやる〉と決めました。なんせ“きかんたろ”(=都城弁で“やんちゃ”の意)でしたからね」。在学中、松教さんは図書館で農業関連の本やビジネス書を読み漁り、卒業と同時に農業を始めました。「米や野菜のほか、鶏や豚も育てていましたが価格変動の影響を受けることも多く、生活を支えるのが大変でした。叔父が酪農をしていたので、試しに牛を1頭飼ってみたところ、1年で田んぼ7反分(2100坪)の米と同じ収入があったんです。これはいい!と牛に絞ることにしました。やるからには県下一番の牧場になることを目指しましたよ」。こうして酪農家になる覚悟を決めた松教さん。当時は農家の法人化を考える人も少ない時代でしたが、松教さんは6次化という言葉が生まれるはるか前からそのことを視野に入れ「法人化することでたくさんお金を借りられる!」と、26歳という若さで「有限会社中村牧場」を設立。宮崎県下の農業法人第一号でした。

 

意を決して、自社製造をスタート。
大胆な無料配布と農家ならではの営業活動で
徐々に顧客を獲得!

 松教さんは都城市内の平野部・山之口町に土地を買い、親牛10頭・子牛6頭から本格的な酪農をスタートしました。「当時は牛を10頭持っていたら大規模酪農家だったんですよ(笑)。でも最初は苦労しましたね。台風で牛舎の屋根が飛んでいったこともありましたよ。親牛は買うと高いから大切に育てて繁殖させ、昭和50年ごろには50頭くらいになり、生産乳量も県下でトップになることができました。うちは昔から餌もできるだけ自社で育ててまかなっています。輸入飼料に頼ると為替の影響などを受けますが、自分たちでつくっていれば安定した経営ができる」。

 当時、「中村牧場」の生乳はJAを通して国内大手の乳業メーカーに出荷していましたが、松教さんは自分の牛乳と大手メーカーの牛乳の味が違うことに違和感を感じ始めます。「本物の搾りたて牛乳をお客様に届けたい!」。次なる目標ができた松教さんは自社ブランドの牛乳をつくることを決意。なんとか資金繰りをし、製造工場を建てました。

 「意を決して建てたのはいいけれど、これから毎日つくる牛乳をどうやって売っていこう?と自社販売を始める1週間前は悩みに悩みました」。毎日製造される1トン、5000本もの牛乳をどうするか?考え抜いた結果、松教さんはそれらをすべて無料で配ることにしました。「大きな会社から個人宅まで〈一度飲んでみてください〉と毎日無料で牛乳を渡しました。牛乳ばかりじゃ飽きるだろうからと、顧客サービスとしてコーヒー牛乳の製造もはじめて、これも無料で配っていました。当時、酪農家は乾燥させた餌を手作業で縛って保管していたのですが、これがなかなか大変な作業でした。機械で束ねるサービスを1束100円で受けているところもありましたが、うちにも機械があったので〈うちの牛乳をとってくれるなら、半額の50円でいいよ〉と営業したところ〈それはありがたい!〉と喜ばれ、牛乳をとってくれるようになったんです」。こうして松教さんの作戦は成功し、半年後には製造する牛乳すべてを直売で完売できるようになりました。

 

都城市内の学校給食にも進出。
余った牛乳はアイスクリームに

 徐々に頭数も増やし、畑の土地も広げ、成長を続けてきた「中村牧場」。平成13年からは都城市内の学校給食でも「中村牧場」の牛乳が提供されるようになりました。しかし、土日や夏休みなど、学校が休みの日は牛乳が余ってしまいます。そこで松教さんは“アイスクリームの製造”に着手しました。「牛は分娩2ヶ月前から搾乳をやめるので、9〜10月の出産で夏休みを乗り切るなど、生産量の調整をしていましたがそれでも牛乳が余ってしまう。そこで保存が効くアイスクリームの製造を始めました」。都城市のふるさと納税返礼品としても提供されている「中村牧場」のアイスクリームはさっぱりとしつつ、コクのある味わいで人気となっています。「アイスクリームは牛乳が余った分の量しかつくれないのですが、祖父がいつも自分のお客様のところに持っていってしまうんですよ(笑)。でも、ちゃんとふるさと納税返礼品分は確保しています!」と勇大さん。

 松教さんは今も自ら運転し、学校や病院、保育園などに牛乳を配達。その際、自分で育てた野菜なども持参し「いるだけとっていいよ〜」とあげているそうです。また、毎月ポケットマネーから従業員のみなさんに美味しいものをプレゼント。とにかく元気でサービス精神たっぷりの85歳!まだまだ現役です。

 

走り続けて60周年。
次世代にバトンをつなぐ

 「今まで自分の思った通りにやってこれて、何より幸せな人生でした。これからは息子(現社長:中村教和さん)や孫たちが新しい感覚で中村牧場を盛り立ててくれたらいいと思っています。万が一、牛乳で失敗したら、孫たちにはうちでつくった小麦粉や大豆を使って“うどん屋”と“豆腐屋”をやればいいと話しています。それぞれの店のお客様に野菜もプレゼントすればきっと繁盛するんじゃないかな。〈人がやらないことをやってみる!〉、これが成功の秘訣だと思います」。一族のトップとして子や孫の未来を案じ、アイデアいっぱいの松教さんです。

 「祖父は例えるなら回遊魚。泳ぎ続けていないとダメなんですよ(笑)。祖父や父のことは本当に尊敬しています。父は北海道の酪農学園大学で学びましたが、卒業を前に祖父が牛乳の製造をはじめたので急遽都城に戻って製造や配達を手伝い、卒業証書も郵送してもらったと聞いています。祖父と父の背中は大きすぎてとても超えられそうにはありませんが、これからは兄と力を合わせ、中村牧場をますます大きくしたいですね。個人的にはチーズをつくってみたいと思っています」と勇大さん。来年60周年を迎える「中村牧場」。これからも三世代が力を合わせ、牛の繁殖・育成から製品加工まで一貫して行う日本唯一のメーカーとして、安心・安全で美味しい乳製品をつくり続けていくことでしょう。

 

 

<編集部コメント>

とにかくお話上手な松教さん。一頭の牛から乳業メーカーへと一代で築き上げたその人生は本当に波乱万丈で、ドラマを聞いているかのような時間でした。どうぞこれからもお元気でご活躍ください。(N)

 

「搾った牛乳は、地下に配されたパイプを通って工場のタンクに入れ、加工、製品化しています。一度も外気に触れることがないので、品質検査をしても菌が見つかることはほぼありません」と勇大さん

 

工場の隣には広大なとうもろこし畑が。ここで採れたとうもろこしは牛の飼料となっている

 

子牛たちに餌を与える勇大さん。通常はお父様とお兄様が農場の仕事をし、勇大さんは品質の検査を行っている

 

「中村牧場」の製品は都城市内や宮崎市、鹿児島市などのスーパーなどでも販売されているが、牧場事務所でも買うことができる

 

事務所入口にはインゲン豆が。野菜は堆肥を使って栽培し、木酢液を農薬がわりにしている。スタッフは畑で自分が食べる分を自由に採って帰っているそう

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